Hearts of Iron2とは?
Hearts of Iron2(ハーツ オブ アイアン 通称 HoI2)とはスェーデンのパラドックス社が作った戦略級第二次大戦シュミレーションゲームです。 諜報要素や戦後冷戦を含めた拡張パック、ドゥームズデイ(DD)がある。拡張パックには本体HOI2が必要なUG版と単体起動する完全版がある。
プレイヤーは第二次世界大戦の期間に存在していた175ヶ国から任意の国家を選択し、その国家を運営していく事になります。またゲーム中は1時間単位で進むためどちらかといえばリアルタイムストラテジー(RTS)と分類されるゲームともいえる。
史実通りにシュミレートする事も、仮想戦記のように史実を塗り替える事も可能な脳内妄想族にはウハウハなゲームです。
貧国では戦争に介入せずに期間中生き残れるかという狭いシュミレートしかできませんが大国には歴史イベントを含めて色々が事ができます。
今回はドイツでプレイします。もちろん反戦超平和主義ナチス・ドイツというありえない方向も面白いんですが戦後の米ソ冷戦に代わり、戦争に勝利して世界の盟主ドイツとして覇権を誇る世界にしてみます。
ちなみにあらかじめ言っておきますが私はやりたい事のために平気でバイナリを編集したり改造します。チート?おなに?だからなに?
1936年からドイツ民族の長き試練の道が始まった。ドイツ政府はNSDAP(ナチス)によって占められていた。
ヒトラー・ナチスは戦後独裁の代名詞として使われる事になるが、出だしはおっかなびっくりであった。
NSDAPは単独での議席数過半数は超えれずに、連立与党としてはじめて過半数を超える事ができた。
当初は一部の熱狂に過ぎなかった彼らが大きく躍進していった理由は同じファシズム国家とされた日本と違い、
敗戦の荒廃にあるドイツに手にとる成果を国民に与えた事である。
大規模公共工事(アウトバーン/高速道路建設)では600万人の失業者に職を与えてインフラを整備し、世界に先駆けた8時間労働法の導入や福利厚生制度によって生活水準を向上させた。更に突出したものでは"国民に外国から祖国を見てもらう"という慰安旅行政策が実施され、10日間3食付のアルプス旅行に当時の一般的な国民の約5日分の給料で10万人の労働者を参加させる事ができた。
またヒトラーの車好きと軍需産業の助力で国民車(ドイツ語でフォルクスは国民、ワーゲンは車の意)を普及させた。1936年には国の威信をかけたベルリン・オリンピックを開催して功績(初の聖火リレー・初のテレビ中継・記録映画)を残した。
常に国民に節制を強い続けた日本と違い、彼らは国民に実りあるパンとサーカスを与えていったのである。だがこれらは統制経済の最も良い面のみであって、監視社会体制は戦況が悪くなる程に国民に重荷となっていった。
だがこの年のドイツ国民、そして諸外国の誰もがドイツの成功は目に見えていた。一体当時の誰が奇跡的とも言える復興を成し遂げていくドイツが2度目の滅びの道へ進むと考えれただろうか。
まさに最盛期、ドイツ国民も諸外国もドイツの更なる躍進を疑ってはいなかった。
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1936年のある日、ヒトラーは夢を見た。世界を巻き込んだ2度目の大戦と、滅び行くドイツの道を知ったのだった。
絶望にうなされながらもヒトラーはプレイヤーの声を聞いた。
「このままでは君たちは滅ぶだろう。だが神の奇跡ともいえる助けをドイツに与えよう。滅びの道へと進むことなく、世界に冠たるドイツとなるために。」
夢から覚め、いつにもなく緊張した顔でヒトラーは得意の熱弁ではなく、冷静な声で閣僚達に今後のドイツにおける大方針見解を説明した。
皆気味悪く感じていた。いったい彼はどうしてしまったのだろうと、気を疑う者もいた。
だが誰もがヒトラーの方針に反対する事は無かった。誰もが躍進を確信し、彼の言葉に疑いがあっても成功は約束されていると思っていたのだった。
かくしてドイツの長い長い闘争劇の幕は上がった。
1936年3月7日、敗戦によるヴェルサイユ条約によって非武装化されていた軍事上の要衝であり、かつ工業地帯であるラインラントの再占領を行った。
ヒトラー自身も、そして将軍達もラインラントへ軍を進駐する事はヴェルサイユ条約に違反する事であり、フランス軍と交戦する事を恐れていた。
もしフランス軍に報復攻撃を受ければ負ける事は確定している、あまりにも危険な賭けであった。
怯える指揮官達にヒトラーはフランス軍に動きがあれば即時に撤兵すると約束して安心させた。
フランス政府省庁の休みである土曜日に"冬季演習"のコードネームでドイツ軍はラインラントに進軍した。
ドイツ軍偵察部隊から国境地帯にフランス軍が集結中であるとの報告に怯えて将軍は撤兵をヒトラーに求めたが、ヒトラーはフランス軍が国境を越えるまで現状を維持せよと命じた。
一方のフランス軍司令官はドイツ軍に反撃すれば長期戦となり、フランスのみでは勝利できないと政府へ打診した。
フランス国民もイギリスや当時の周辺国は先の凄惨な大戦から平和主義が蔓延していたし、ドイツに対して同情的な態度を取る者も多かった。
フランス政府は総選挙を控えており、軍の総動員を否決した。
電撃戦の生みの親であるグデーリアン将軍はこう回顧している。
「もし、1936年にフランス軍がラインラントに侵入してきていたら、我々は敗北し、ヒトラーは失脚していただろう。」
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街は熱狂の渦にあった。商店の店主は古いドイツ国旗を取り出して掲げて幾度も万歳と叫んでいた。
街の子供や娘達は隊列を組み行進する歩兵や勇壮な騎兵隊を"強きドイツの象徴"として、その国民であるとの自信に溢れた憧れの目で見つめていた。
軍司令部はフランス軍の報復攻撃に絶えず怯えていたが、やがて我々は賭けに勝ったのだと安堵した。ただ一人、勝利を既に知ってしまったヒトラー1人を除いて。
スペインでは1936年、総選挙で左派が勝利して人民戦線政府が成立した。
そしてついに軍部は反乱を起こした、フランコ将軍はカトリック教会やドイツ・イタリアのファシズム陣営から迅速な支援を受けた。対してイギリス・フランスは不介入中立とした。
ドイツはフランコに援軍を送った。スペイン内戦はドイツ・イタリアの新兵器実験場と化した。
また新兵器・新戦闘教義を生み、ドイツ軍義勇部隊-コンドル軍団は実戦経験を積んだリーダー達を作り上げた。このドイツ空軍の爆撃に影響されてピカソによる「ゲルニカ」が製作された。
また反乱軍モラ将軍がマドリード攻略に際して4つの縦列隊を持っていたがラジオ放送で「市内の第五列によって勝利する」と豪語し、以後軽蔑的な意味合いでレジスタンス的な活動を「第五列」と呼ぶようになった。
人民戦線政府は当初から劣勢であった。ファシズムと対立するであろうイギリス・フランスの援助を期待したが、宥和政策によってその夢は砕かれた。共和国は一枚岩ではなかった、反スターリン主義との対立や内部の粛清によって混迷していた。兵力は極めて少なく、当初からその大半を義勇兵に頼っていた。ヘミングウェイも参加していた55ヶ国以上からなる有名な外国人義勇兵部隊「国際旅団」はマドリード攻防戦やエブロ川攻勢で活躍したが、攻勢を維持できずに1939年1月バルセロナが陥落。イギリス・フランス側もフランコ政権を承認し共和国側の敗北が決定打となった。共和国はメキシコに亡命政府を確立するが、フランコは亡命者の帰国を認めたために、再び日の目を見る事はついになかった。一方のフランコはファシズム側と一定の距離を置き続けて国際関係を巧みに生き抜き、83歳の死までスペインの支配者として君臨した。
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ヒトラーは当然のようにフランコ支援を決定した。その考えは最終的にスペインと協調して地中海の入り口たるジブラルタル海峡をイギリスから奪い取るためである。コンドル軍団を派遣し、膨大な物資の援助を開始した。もはや誰もがフランコ側の勝利を疑っていなかった。
今はソ連を刺激してはならないとヒトラーは考えていた。それは大戦へと発展した時の外交関係である。大戦となり、西方での戦いで確実な勝利を得るためにはその時まで介入は少ない方が良い。また、防共協定自体は同盟や条約等と比べて実効性のないものであり、そのためにソ連の不興を買うのは避けたいと考えた。想定している西方作戦は多大な時間がかかり、アメリカが介入すれば長期戦は確実である。この頃のドイツは軍備拡大に向けて大規模な生産が行われていた。何年、いや十数年も先を見越した大規模な軍備再編・拡大計画である。集中した質の向上1点に力が注がれていた。
フランコ側の勝利によってコンドル軍団が帰国。近接航空機関連の研究ドクトリン青写真がもらえる。が、もうチートで開発済み。あまりうまみは無いが、万が一にでも共和国派が勝つとジブラルタル海峡奪還作戦実行の可能性が一気に無くなってくる、とりあえずは一安心といったところだろうか。
日本か中国かの二者択一イベント。防共協定では孤立を選んだがHoI2では日本もかなり不安要素の大きい存在。アメリカとの開戦は独ソと同じく不可避である、友好高けれども同盟ではない、が一番堅実な選択だがソ連やインド(英領)に対して挟撃できる存在としてあなり頭を悩ませる。どのみち中国との交易でどうのとは考えていないためドイツは満州を承認する事とした。中国やインド方面での実力を示してもらう事にしよう。
オーストリアを含む大ドイツ主義は当のドイツもオーストリアにとっても統一は悲願だった。ヒトラー自信もオーストリア出身であり、イタリアが国際的に孤立した今統一を妨害する存在はいないはずだった。だがオーストリアは直ぐに統一はしなかった。オーストリアはあくまでドイツとの統一は願うが、ナチスドイツは異質なものであると感じていたのだ。「血を同じくする者は同じ国家に」のスローガンの元に国民投票が行われ、賛成率は97%だった。こうしてヒトラーが得意として恫喝外交の部分はありはしたが合法的にオーストリアはドイツと併合された。戦後、ドイツ系オーストリアを否定して、オーストリア人によるオーストリア国家というアイデンティティが確立するのは逆にドイツと併合した事によって生まれた感情であったとも言えるだろう。
チェコスロヴァキアはヴェルサイユ条約によって人為的に作られた国家であった。このためスデーテン地方には多くのドイツ系住民が取り残された。スデーテンのドイツ系住民はチェコスロヴァキアに自治権を要求する程度あったがドイツのオーストリア併合が成功した事によってスデーテンの住民とドイツ政府はスデーテン地方の割譲をチェコスロヴァキアに求めた。ドイツは軍事介入も辞さないと強気の態度に出たがチェコスロヴァキア政府は総動員を発令した。当時のチェコスロヴァキアはフランス・ソ連と同盟関係にあったために、開戦となれば直ぐに世界大戦に発展すると誰しもが恐れた。この危機を回避すべくイギリス・フランス・イタリア・ドイツの首脳がミュンヘンにて会談を行った。チェコスロヴァキア代表は会談に参加する事が許されず、控え室にて待たされた。そして協議の結果、今後ドイツがこれ以上の領土要求を行わないという約束の元にスデーテン地方をドイツに割譲する事を取り決めた。イギリス代表のチェンバレン首相がチェコスロヴァキア政府に協議の結果を伝えた。この時、チェコスロヴァキア代表のマサリク外相は世界から見捨てられた事を理解して涙を流したと言われる。スデーテン地方割譲によって自体は沈静化するかと思われたが翌年1939年にドイツ軍がチェコに進軍、結果としてドイツに併合されてチェコスロヴァキアは解体されたのである。

ヒトラーと握手する英首相チェンバレン
ヒトラーと一方のチェンバレン首相は欧州の平和を守ったとして国民から暖かく迎えられた。後年宥和政策として無責任な平和主義がファシズムを育てたのだと非難される事になる。ヒトラーの領土拡大は止まらなかったのである。その後ドイツは国歌にあるように元々東プロイセンでありドイツの一部であったメーメルの返還をリトアニア政府に求めた。リトアニア政府としては本来ドイツの領土を抱えたまま強硬な体勢ではチェコスロヴァキアのように併合されてしまうと恐れた。小国故に対抗もできない。リトアニア政府はメーメルを返還する以外に道はなかったのである。
犬猿の仲とも言われたヒトラーとスターリンが手を結んだというニュースは世界に衝撃を与えた。だがヒトラーもスターリンもあくまでも一時的なものに過ぎないと考えていた。協定には相互友好と不可侵と表面では約束したが公表されなかった秘密議定書が本協定の本題であった。秘密議定書には独ソの勢力圏の確認がなされた。バルト3国・ルーマニア東部・フィンランドはソ連の勢力圏とし、ポーランドを分割占領する事で合意した。
二日後、イギリスとフランスはポーランド相互援助条約を結び開戦まで秒読み状態となった。ソ連は11月に勢力圏とされたフィンランドに侵攻を開始し"冬戦争"が始まったが雪中の奇跡と呼ばれるフィンランド軍の根強い抵抗で大規模な損害を被る事になる。
フランスは思いもよらないドイツ軍のマジノ戦突破によって混乱し、軍の統制も乱れてまともな反撃はできなかった。救援に来ていたイギリス軍も大部分が壊滅し、残りは惨めに本国に逃げ帰ったのだった。そしてついにペタン首相による講和条約をドイツは受託し対フランス戦は終結した。